昭和45年1月18日     朝の御理解
御理解第49節
「信心は相縁機縁」
相縁機縁という事、愛の縁、神愛の愛のこと、書いとってください、機縁は機は心ですから、心の縁と、今日はそう意味で現わそうと(    ?    )。相縁機縁、確かに信心は愛縁心縁です、皆さんでも、やはり、たくさんの、例えば、教会を通り抜けて、遠い所から、たくさんお参り。今日は福岡、今夜近い所ですかね、伊万里あたりからも、ああしてお参りになっております。
確かに信心は愛縁心縁だと思います。昨日も、熊本のある教会の先生達(    ?   )、毎月、月参りをしております、昨日は正月からのお礼が遅くなりましたけれどもというて、何か御挨拶も出来ませんでしたからというて、昨日はまた夫婦で参って見えて、丁度お昼でしたからお食事を一緒にさせて頂いていろいろ話しを聞かせて頂いたんですけれども。
本当に信心は相縁機縁だと、本当に私は有難いと思います事は、私が現在の親教会に、もうあっても、のうてもいいというような取り扱いを受けておったおかげで合楽に縁を受けましたとこう言われる。
教会(  ?   )、(           ?            )と言われるような難病を体に持っておられますから、布教に当てたもう、従来布教に当てた、私が一番有難いと思います事は、もうぜんぜん信者の信の字もなかった所、でありますと。
ですから布教当初の苦しさというか、もう、長年の間布教に出た者の、教会にもなれない、まあ、信者が五人出来て、その五人が総代の事になればすぐ教会認可が下りるんですけれども、その総代が出来ないというような、まあ、言うなら悲惨なとでもいうようかね、困った中に道が開けようともしなかった時に、たまたま椛目時代に御縁を頂いて、ここだと、自分が、自分が助かれるのはここだと、ここに極ましたと、(笑い)。おかげで信者が段々助かるようになり、長年とても教会がおぼつかないと思うておった教会に、去年は教会設立おかげもなり、その前後して現在小さい家を当時借りておられたその家がどうでも(   ?    )困った難儀な事だと、その時にこちらにお参りさせて頂いたら、丁度私が「ゆきましいたい?」を頂いたんです、雪が降ります、あれを顕微鏡で見ると様々な形があります、それを先生、雪は大変冷たいもの、なるほど今あなたにね、(矢口さん?)が(     ?      )と言う事は非常に冷たいもの、冷たい事に聞こえるけれどもね、それを冷たいとしたらおかげになりません、あれも一つ心の顕微鏡でながめてごらん、もうそれこそ、その小渕一変一変の中にね、その(      ?      )一つ一つの生態を見てごらん 、もう、とにかくみやぎがしないほどに、あの、レース (     ?      )雪の生態というものがそんなに見事な、どこの、誰がこの様な素晴らしい形に作ったかと思われるような形がそこにある事を分からせてもらうのです、親がいうておる事がいかにも冷たい事のようだけれども、それをよーく信心の心で、心の眼を持ってごらんなさい、それは素晴らしい雪の生態にも似たようなものですよという御理解だった。もう、先生がその御理解を頂いた時に本当にそうだと思った(感動される)ようやく人が助かってきた、さあ教会にでもならせて頂くぞという時に、その、別に貯えがあるわけではない、体が弱いと、どうぞ自分に所にです、さあ家を建ててもらわにゃ困るというような事を言われましたけれども、確かに先生が言われた通りにあれは冷たい仕打ちではございませんでした、天地の親神様の、それこそ絶えなるまでのお働きであったというて喜んでおります、夫婦のものが。
もし私にです、最近私のもの、私の方に一つの御ヒレイが輝き出した、だから皆が注目するようになりました、去年あたりは富永(詰まる)、もう、先生がしのること言いなった、一般ではそういいよった、ところが私がこの様に段々元気にならせて頂いて、しかも、現在おかげを頂いておる教会よりも大きいがです、もう、場所も、もう、ていうか、実に教会として理想的な所だとこう言われる、交通の便利といい、静かである事といい、日収しとるその町にはすぐ近いといい、どこから何といっても神様が定めてくださった、神様が下さったという思いで、まあ、そういう感謝のものがあきくれておるというて喜んでおります。もし私がです、よそのだれだれのように教会でなんでも修行させてもろうたり、そして、そこの、例えば、あー信心のお育てを例えば頂いた師匠がもしおるとするならです、それは人間心の上から言うても、とても私は合楽には参れません、けれどもあっても、のうても良いというような取り扱いといったところです、もうとにかく、病気で入信したんですね、だいたい、その病気はだから以前として現在もそのままだけれども、ね、それで、金光様の先生にのうなったらどうかというようなことで、もう、その教会修行も何もせずに、修行に行った。だが帰ったからと言って、帰ったもうすぐ、いわば布教に出たと。もう、本当に先生、私は親教会で、思いらしい思いにひたったことがない、まあ、こんな事申しあげてなんですけれどもと言うて話されますのに、ね、たまたま、お参りして、今日はご本を頂いて行ききると言われるけん、あら、今日はどうした事じゃろうかと思うと、寝間よっとる、ね、多すぎて好きなごたる時しか言われん、そのたびに帰って親教会から心が離れて離れてどうにも出来ない、それでも、まあ、親教会手続きといったような問題にしなければおかげは頂かれん、助かれんというような…。教えて頂いとるもんでですから、そうとばかり思いこんでいた、先生私はどうでもあの熊本地区にです、金光教の迷信打破の為に邁進しますち言うて昨日言われました、金光教の内部に出来ておる迷信を打破しなければならん、信心さえ求めていけば、道という言葉に迷う事勿れ、道は教えを守るほかないと教えて下さる合楽の信心がです、いかに正しいかということを私共夫婦が身を以って示していかなければなりません、迷信打破の金光教がです、その内部にそのような迷信が出来て行きよるという事、それを打破する為にも私共は御比例頂かにゃならん、最近おかげを受けております、中に、もうとにかく合楽流儀だとおかげの現われ方が、第一素晴らしいタイミングの素晴らしいおかげ、お供え物の内容まで合楽と同じような、それは大と小と違うけれども、合楽流に御比例が立たせて頂いておる、朝の御祈念でも、まあ、ここ当たりは、その、五時当たりに参ってくる事はそんなに対した事ないばってん、私の方当たり、熊本あたりはですね、自動車で30分かからなければ参りできないとうような所から、段々この頃は二三人朝参りするようになったとか、ね、いえる、いくつかの教会を通り超えてそのお参りをしてくる、若い者がこの頃、段々売れてきたと、青年会ができてきた、しかも、その青年会が中心になって、いわえる、御用を頂いて、先日なんか、青年達が集ってから申しますんですと、先生どうでも一つ、その人は兄弟三人兄弟だそうです、ですから、合楽の秋永兄弟を目指して僕達は信心しとると、(     ?     )
一生懸命信心ができておると、(     ?     )、僕達の理想は秋永兄弟を目指して信心を進めていきますと、なんとも言う心強い思いが致しますっちいうて喜んでいます。
確かに信心は愛縁心縁ですね・・・・・・・・・・。
そういう意味で、確かに信心は合縁奇縁と、ここに教えておられますけれど、今日、私はこの合縁奇縁をね、愛という字を神愛の愛という意味で聞いて頂きたい、奇縁というのを心の縁、奇は心ということ、心の縁。
昨日は、昨日から今日にかけてですけれども、昨日の昼から、今日の昼まで、築葉会の方達が、まあ、特別入殿ですね、教会に入って入殿の形をとって信心の稽古をさせて頂こう、信心の稽古の上にも、御用の上にも、おかげを頂こうと言うんで、昨日からおかげを頂いております、御祈念が過ぎましてから、昨日初めて、しばらく親先生の話を頂きたいと申しますから(   ?   )ばっかりと言うて、まあ、お話を始めましところが、もう、とても12時頃まで、12時ありましたでしょう、熱心に信心の共励が出来ました、その中にね、いろいろお話が出ました中に、合楽の信心は非常に深い、ですから平田さん、平田信徒会の会長ですね、会長あたりの、まあ、言うなら深い信心の話しが合楽の人達はよく分かる、自分達もそこを通らせて頂いておる、だから平田会長も、合楽の人達が言うことはそうだと、そうじゃんのう、というふうにして聞いてくださる、言うことがあい通づる訳です、ね、昨日、たまたま、毎月送ってくれます大阪の泉尾教会の新年後の秋の雑誌が、昨日は送ってまいりました、(          ?        )あちらの親先生も言うておられますね、今年は、記念なん年ですか?1940年ですか?1970年ですね、この1970年は大転機の年だと泉尾の、と言うふうに言うておられますね、私もそれを感じます、その、泉尾の先生の話になっておられる事、また、雑誌に現われとる事、等を読みますと、なんと言うんですかね、非常に浅いですね、深さがない、先日からもあちらで修行なさった先生がここへみえまして、ここのテープを借りて、帰られて、そして、あちらの教会でずうっと回されて問題になったと、だからそのテープをあちらで移してしまって、その、大変な事を言う先生がおるんだと言う風に、そのテープをかっぎて、そういうことが書いてやった、話してあったんでしょうね、けれども、ご安心下さい、私共はそこのところは(    ?    )して頂いて、決して他に漏れるようなこと。(     ?      )そんな風に言うて、そのテープを送り返しておられましたがね、まあ、とにかく合楽の信心の深さにね、いよいよ有難いものを感じましたと言うてきておりましたが、確かに私自身もそれを感ずるのです、けれども、あれほどしのおかげ、先生がいつも言っておることは、社会が好きやったのごたるですね、社会を助ける、そういう、まあ、広い願い、祈りを持っておられる、まあ、信心の情熱を燃やしておられるなわけでございますけれどもね、それでいてですね、あれほどの御ヒレイ、まあ、名術ともに日本一でしょうね、の教会が隆々と御ヒレイが輝いていくと言う事はどうした事だろうかと、私、お話を終わらせて頂いて、後でここで御祈念をさせてもらって、私はその事をふっと考えた、そしたら、神様からですね、「人村の竹屋根です」まあ、そうですね、畳六畳じき位の竹村が、その竹村を縄で搾ってあった、ところがですね、竹は搾ってあったけれどもね、竹の子はあちらにもこち出ていきよる。はあ、これだと思うたんです。
今日は相縁機縁の下の方の機縁という所を私は申しました、心の縁と言う事。いかにも、説いてあるところは浅いようではあるけれどもです、それは先生の、深いけれども、それを搾っておられる訳です、ね、それを皆に分かりやすく、まあ、ご自身は実際は大変な深い物を持っておられる、それを搾っておられる、ところが根が違う、だから信心はね、この気縁という所、心につながっていく所の神様、心につながっていくところのおかげ、ね、いわゆる、心一つでおかげになるというおかげを願わなければならないことが分かります、本気でやはり魂の清まりを願わなければならないことが分かります、ね、その人村の滝屋根は搾ってある、けれどもです、その根は、それこそ、どこまでもいて、思いがけないところでポカン、ポカンと竹の子が出ているように、そこに、よその教会の発展、ごヒレイがあるんだと夕べ気付かせて頂いて、なるほどそうだなあと、これは難しいことばっかり言うてはおられん。昨日、私はそれを申しました、この頃から信徒会で(  さん)の話しが、昨日も、まあ、お話に佐田さんから電話をしたが、佐田さんあんたがそんな難しいことを言うたっちゃね、この人達は分からんよと、私が言うた、ね、貴方はそれを分かって行きよろうけど、分からん、いわゆる、私がそれを、まあ、評して、平田哲学だというような、例えば、信心させて頂いたらですね、(     ?      )それが当たり前だと言うのです、平田さんは、それはなぜかと言うと、それだけ信心の時間に、やはり、時間を取るもんですから、(   ?   )草取りもできんだろう、昼起こすことも、やはり(  ?  )遅れるなんだから、少ないのが当たり前だと、それは、信心すりゃ、10分の所を11分とりますなんて(       ?       )と言ったような信心がです、そういう意味がわからないと(    ?   )が言うておられました、お父さんが帰ってそんな話をしますけれども、お父さんも分からんごたるふう、私も分からん、けれども、それは、こうこうですよと言うて、佐田さんがそこの所の説明をしておりましたが、ね、私の方のおばあちゃんも始めはそうでした、これは、もうお参りは一人づつ位でよかろうもん、だから一人代表でお参りする事と、以前のおばあちゃんはそうでしたけれども、そのおばあちゃんがこの頃は、もう、先駆けてです、自分が先頭に立って(   ?   )でお参りしなきゃ金光様のご信心は家族中で頂かなければ出来んと言うてはずんでおられるが、その自分のおばあちゃんが言うなさいました、布団の選択も出来ん、家の掃除出来ん、ね、だからとにかく、代表で一人づつお参りしようじゃんのうと言うような信心が、最近ではです、家族を上げて御信心だけは頂いとかなきゃ、頂けるときに頂いとかなければならんと、例えば、10年遅れてです、布団が腐る、選択が出来るのに、(   ?    )おばあちゃんかまいませんよと、私は言いよりましたがです、ね、(  ?  )まあ、言わば、腐(    ?    )です、しかも、家族を上げて信心の稽古が出来る、そういう意味なんですよ、ね、平田さんが言うておられる最後の所はです、信心しよるから10票取れる所が、7票か8票しかとれん中にあってもです、10里たってから計算をやってみれと、そこにはね、もう理屈じゃない、「りあい」の「り」である、ね、例えば、現在の(  ?  )と言われるようなお粥がそこにあるじゃないかと、これは合楽の場合は言うてもいいのです、ね、私がコツコツとして、商売をさせて頂いておって、なら、現在のようなおかげを頂けると思われましょうがね、だから、実にそれは深いお話なのである。
けれども、やはり氏子が神の世を足せば、神が氏子の世を足してやると仰るように、信心させて頂いておればです、よせがき10票取れるところは11票、例えば、こないだ宮崎さんあたりの大金から言うとそれなんです、ね、例えば2丁の田を作ったら20票(    ?    )というほどしのおかげが受けられるんだとしてです、そのおかげを現して行く所から、そこからだんだん・・・。ところが大和さんの所は、私の方は反対に少なかった、ならあんたの方がちいった信心がまだ進んで行きよるとたいと言うて、昨日話した事でした。
ですから、段々他に信心が、まあ、お育てを頂かにゃなりませんけれどもです、なるほど、やはりそういう一つのおかげというような所から信心は入らせて頂く。
久留米の井上さんから、たまたま泉尾のお話しが出ましたから、私の場合は兄弟であちらの方へ行かれた時に、泉尾の姪子さんが、アツ子さんというのがあちらに行っとりますから、兄弟三人から四人、皆でいろんな教会にお参りさせてもろうた、そして、泉尾の先生にお目にかかってから、頂いた御理解がです、とにかく、もう、とにかく水も漏らさないような家庭生活、そうすりゃ絶対参ってこんと言う主人が参ってくる、ついてこないという子供がついてくる。だから、絶対(      ?      )また、事実そうです、例えば、今の数子さんなんかはおかげを(    ?    )それを教えられてです、もう、それこそ主人をこれ以上は大事には出来まいて言う風に大事にしたと、ね、合楽にお参りをしよる時にはそげん大事にしよらんかったから、主人はついてこなかった、けども、大阪に移って、泉尾、主人をいよいよ大事にしならならんという風にさせてもらって、もう、それこそ水も漏らさんような大事な仕方をさて頂いたらその主人がついてくるようになり、夫婦が揃うて信心の稽古が出来るようになった、誰でも分かるのですねこれは、ですからですね、やはりそういう意味合いで言うとです、所の井上さんの場合はだからそれではないと。始めの間は主人がね、子供達が、親達のそういう意見をいわば押し切ってのお参りであったと、ところが、最近ではその、主人がです、子供達が私共より進んだような信心を願っておるし、主人なんかの変わりようていうたらもう、本当にたまがらんほどしにおかげを受けておる、それと反対なことがある、深い所から入った、泉尾ではこう頂いたけれどもです、実は泉尾の先生の反対な所を、実はやむにやまれんというのが合楽に通ってくるようになり、そこからおかげを頂くようになったという体験を発表をしておられます、けれどもね、それはやはり難しい、だから内容にはそういう物をもってです、浅いとか、いうならば本気でです、例えば、ある会員の夫人の方にお話をした事です、あんた方も、もう、ちょっと口ばかっり(        ?         )実際はやってないもんのうと、けれどもね、やはり親は親じゃからと、だから徹頭徹尾あなたが信心にならせて頂いて、形じゃない心からです、いわえる、徹頭徹尾その親に大切にすることを一つしてもらいなさいと言うふうな事をもうさせて頂いたんですけれどね、心には深い物を閉めながらです、そして、形の上では徹頭徹尾、いわえる、心で縁を作っていく、確かに、家庭生活がです、水も漏らさない、例えば商売をさせてもらうなら徹頭徹尾お客さん本位にして、お客さんを大事にすると言う生き方、ね、それなら誰でも合点が行くな訳なんですね。
合縁奇縁、言わば、形の縁においてそれが徹頭徹尾、大切にして行くという縁から、ね、(   ?   )するようなおかげになり、心の縁から入って、ね、それが縁になると。今日、第49節と言う御理解を頂いておりますが、今日は49節という所だけを頂いたんですけれども、けども、信心は合縁奇縁という事になっておりますから、お願いさせて頂いて愛の縁、心の縁というふうに思わせて頂きましたが、だいたいは四十九節、四十九ということはしじゅうくということ、いわえる、信心させて頂く者は一生が修行じゃと仰る、そこで私共が一生が苦労とか修行とかと言う事はです、風の不自由な不健康な事やら、家庭のいろんなわずわらしい困った家庭的な問題やらで修行させられるのじゃつまらんですから、いわえる、心縁ね、いよいよ心を大切にして、いよいよ心の清まり、魂の清まりを願わせて頂いて、そこから生まれてくる縁、形の上には搾って、いわえる愛縁をもって現して行く、(  ?  )上には、心の縁を願わせ貰う為には、その心自体が清まった縁に、清まっておかなければならないという事、ね、そこからですね、例えば、屋根の上の竹の棒は搾ってありましても、竹の子は所かわずやはり繁盛のおかげになって行くようなおかげが頂けれる。せっかく一生が修行だと、修行させて頂くなら、これは、今まで出来ない(  ?   )この世にある限り、一生が修行な訳です、それを仏教的に言えば、この世は苦の世という事になるでしょう。
ですから、この世は苦の世に住まわせて頂くのが人間なのですから、ですから、それを苦の世とせずにです、修行が世とさせてもらう、しかも、修行の縁がです、痛い痒いと言ったような修行すんじゃなくてです、私共が本気で心の修行、ね、ここに取り組むならです、それこそ、あちらこちらに竹の子が、いわば、その根の繁盛の限りにおいてですよ、2000年先にも、3000年先にもおかげが繁盛していくようなおかげがそれに伴って行くな訳です、ですから、いよいよ私共が取り組まなければならない事は、心だという事があります。
だから、困った事が起こった、難儀な事が起こったと言うような問題があると言う時は、いよいよその事を持って、自分の心の上に、だから、昨日は竹世会の方達に最後に申しました事ですけれども、私共が信心させて頂いての物の見方、考え方がです、例えて、これは私の例で言うなら、家内が私を軽う見る、子供達が言うことを聞かんという時に、私は決して子供が言うことを聞かんとは言わん、お前はどうして俺を軽う見るとは言わん、ね、いわえる、自分自身の心を見つめる、なるほど、家内が軽う見るはずだという物を発見する、この頃、なるほど言うことを聞かんはずだと言う物を自分内容にみつける、そして、それを改まって行くと言う所にですね、私はそこまで一つ、お互いの一心上に出らなければいけませんよと、ね、そすと、内の家内がとか、内の子供とかと言うことなんかは、これは人間だけじゃない、なら、難儀な問題であってもそうです、苦い思いをすることがある、ね、本当にこんな難儀があるじゃろうかと言う難儀に直面する、そういう時には、どうしてこういう難儀な事が起こるじゃろうかと、向こうの方へ持って行かずにです、こうして神様が私を鍛えて下さるんだ、いよいよ心を強い者に、清まった者に、嫌顔上にも清まらせて下さるんだ、その事を通してと言うような頂き方、ね、そういう私は受け方を今日は心縁と申しました、気は心、そういう清まりに清まっていくその心と神様との縁が結ばって行く所からです、上はいかにも搾ってあるようであっても、ね、(  ?  )思いもかけないところに繁盛の兆しが生まれてくるのです。
せっかく一生修行させてもらうならね、そういう修行に取り組もうじゃないか、ね、四十九であるならば、いつもが九、苦しいならばです、ね、形の上でも苦しい事はもうごめんだと、心の上の行、いわえる、心行に本気で取り組んでいく、そこから生まれてくる縁を今日は心縁というふうに申しました。
徹頭徹尾、徹頭徹尾主人を一つ本気で大事にさせてもらおう、水を漏らさんような思いで、(  ?  )を大切にさせて頂こうと、ね、そこからです、親がついてくる、主人がついてくる、子供がついてくる、それを私は愛縁と言う風に今日は申しました、ね、信心は合縁奇縁、そういう所にお互い焦点を置いてです、いよいよ心を大切にさせて頂くおかげを頂かなければならん、難しい事ばっかり言うて行く事が信心じゃない、それは哲学的な、教学的な勉強もさせてもらわなければならんけれども、それを人に現す時にはです、ね、まあ、その人、人なりのいわば、生き方、こげん大事にするなら、かえってくせになる、かえって甘えよると言う、それはどこまでも人間心、神様が徹頭徹尾大事にされる、せよと仰るから一生懸命に親に尽くすのだ、子供に捧げるのだと言う在り方、そこから生まれてくる、いわえる、皆、その信心についてくる、それを愛縁、心の縁、それはどこまでも限りなく、せっかく、修行と言う物はね、これはいつもとものうておる、人間はやはりこの世に住む限り必ず何がしかの修行がある、だから、それを痛い痒いで修行をするのではなくて、心に修行させてもらう、そういうものが無くなってくる。
ですから、心を、例えば、本気で見つめさせてもろうて、そこから心行が始まる、そこから、いわえる、心の縁が生まれてくる、神様と私共の心が通うてくる縁が生まれてくる。
今日は愛縁気縁ということをですね、表面に出しての御理解を、熊本のある教会の先生の例をもって、なるほど愛縁気縁だなあと分かられたでしょう、そこから良い物が生まれてきとる、それを今日は四十九と、ね、いつもが修行だと、ならば、せっかくなら尊い修行、有難い修行をさせて頂こう、それは心行だと言う意味の事を神縁と、いわえる、心の縁、気縁というふうに申しました、もう、とにかく、徹頭徹尾、自分の商売を徹頭徹尾、お客さん本位にならせて頂こう、主人本位にならせて頂こう、お母さん本位にならせて頂こう、それこそ、水も漏らさん思いでそこを大事にさせて頂こうということを愛縁というふうに申しました。
                                     どうぞ。